1999年 1/8GPレーシング全日本選手権 チャンピオン

9/26 決勝日 写真

氏名 浅原 務 Tom Asahara
出身地 岡山県児島郡灘崎町
  町営で「使用中止になったジムカーナコースをラジコンに転用」した河川敷もある。
温泉プールも有る。
正式登録名 Tutomu Asahara
身長 低重心
体重 超軽量化対策
血液型 ニトロ30%

世界選手権 戦歴
1993年 スウェーデンは不参加。というより、この時は全日本(1/8)も未経験。
1995年 タイ・プーケットに於いて世界戦初デビュー。アジア圏内としてTOP。
  アジア圏内ではチャンピオン 15位。
1997年 メキシコに於いて16位。
1999年 フランスに於いて1/4ファイナルにて準決勝に2秒弱届かず散る。27位。
2001年 ファイナル入りを期待してます。
     
全日本99 TQトロフィー
全日本99 優勝トロフィー

全日本選手権 戦歴

1983年

全日本選手権EPレーシング初挑戦。
1994年 全日本選手権初挑戦(1/8レーシング)3位獲得。
  マイケルが参戦した年です。
1995年 全日本選手権(1/8レーシング)3位。
1996年 全日本選手権(1/8レーシング)4位。
1997年 全日本選手権((1/8レーシング)掛川)決勝は雨天でキャンセルされ
  予選順位による結果となり良きライバル濱口選手が優勝。結果3位。
1998年 全日本((1/8レーシング)SPL)決勝は後半TOPを走るが残りわずかで
  追い上げてきた大阪選手と悪夢の接触、無念の3位。
1999年 全日本選手権((1/8レーシング)スピードランド香川)にて
  予選唯一16周を記録しTQ獲得
  決勝は2位との差を2周残して優勝。晴れて全日本チャンプに。
  周囲の者は喜びに涙する。ご本人は・・・・。

他の戦歴
1983年 サファリスピードウェイ シリーズチャンピオン獲得。
1993年 郵政大臣杯ジャパンカップ(SGS) 5位
1994年 郵政大臣杯ジャパンカップ(弓削)  優勝
1995年 NCRシリーズ           2位
1996年 NCRシリーズ           2位
1997年 NCRシリーズ           2位
1998年 NCR&CRPシリーズ       2位
戦歴は書いたらきりがないので、記憶に残ってる部分だけです。
トロフィーなんて欲しがる人にあげていたそうで・・・。

年 譜 (生い立ち)
1965年 4月23日、(岡山県倉敷市水島)にて誕生。
1980年 中学3年生の時に地元倉敷の西岡模型店主催のレースにてデビュー。
  約50人ほどのエントリーで、何もかも初めての経験で、
  訳の分からないまま、予想に反し優勝してしまう。参加車両はタミヤセリカ?
  この後、気をよくしてずっとラジコン。ひたすらラジコン。
1981年 高校に入って、サファリスピードウェイという1周120mの常設電動
  カーコースがオープン。レースには約100人近く集まってました。
  近所の仲間5〜6名でレース参戦するようになり…。
1983年 サファリスピードウェイのシリーズチャンピオンを獲得。
  この年に千葉県にて開催された1/12EPレーシング全日本選手権に初出場。
  成績は50位前後。この時のチャンピオンは高麗君。
  その後も1/12EPレーシング全日本選手権は数回出場するも、最高位は新潟で開催
  された時の予選10位。ただこの時はファイナル枠8名で無念のBメイン。
19**年 ヒロボー入社。
  この後、里美さんと結婚する。嫁さんのお父上がうどんチェーン社長さんなので、
  自らもイズミ平島店の店主に納まる。これが悪夢の始まり。
  (このイズミ、本店は広島県のデパート?総合テナントビル?スーパー?
この岡山県東平島店のことです。)
1992年 中古のBMT89を手に入れ、ハチイチレーシングの世界へ入る。
   (この間もEPカーは走らせていたが、仕事の都合でレースなどはほとんど出場できず。)
  GPカーの迫力にはまり月に一度日曜日に休みを貰い、SGSサーキットのレースに
  参戦するようになる。優勝0回。 この時すでに全日本チャンピオンを獲得していた長谷川さんや
  山口 真一さんなど5〜6名で優勝争いをしており、Aメインに残れてもただ走るのみの時代。
  岡山勢で一挙SGS通いを始めた時期でもある。当人の三菱デリカは多くの友人の足となる。
  電気ポットを忘れないので有名。
  岡山県山陽町へ新築住宅を完成する。子供の出産も近く、
  ラジコンの出費規制がかかり始める時期であったろう。
1993年 濱口選手が、徐々にレースをリードするようになり、この年SGSで開催された
  郵政大臣杯ジャパンカップで濱口選手が見事優勝を飾る。この時の順位は5位。
  長男 健斗君誕生。命名候補はパソコンで占った。健斗君は今でも時々ノーコン。
1994年 1/8GPレーシング全日本選手権に初めて出場。
  この時マイケルサルベンもエントリーしており、練習走行からグリップの悪い路面にもかかわらず
  コーナーを攻め限界走行を行い、圧倒的なタイム差でレベルの違いを見せつけられた。
  そのころ日本では、カンナムローラボディが主流。コーナーへ目一杯突っ込み、ブレーキで向きを
  変えるようなコーナリングで、速くは見えるが安定しない走り方が日本選手の走りでした。
  マイケルが見せたポルシェボディでのスムースなコーナリングは不慣れなコースに於いても2位以下
  に1周近い差を付け、ポールポジションを獲得。 早速マイケルにマシンクリニックを行って貰い、
  ポルシェボディで出場。しかし突っ込み重視のコーナリングの為リズムが合わず上手く走らせられな
  いので、急遽走り方を変更する。マイケルには及ばないもののスムースな走行を心掛けギリギリ10
  番手で、初出場ながらも初のファイナル入りを果たす。決勝は終盤までこの時優勝した石島選手に
  付いていたが、タイヤバーストで後退したが、なんと初出場で、3位を獲得する。
  この時「Asaharaは何時かチャンプを取れるよ」とマイケルサルベン氏より
  コメントを頂いたのだが本人には伝えなかった。
  この年、瀬戸町に弓削サーキットが出来、ジャパンカップが開催され、これも制覇してしまった。
  うどんテナントは近い事もあり、夕方は弓削メンバーで占領されてしまう。売り上げ増?減?。
  またイズミ裏口ではよくボディ塗装をする店主の姿がを確認されている。
  うどん店閑散時間帯にはハチイチ部品が散乱というありさまで迷惑したのは多くのお客様であろうが
  謙虚な雰囲気とさわやかな人柄でクレームには成らなかった。
  SGSの常勝メンバーとなりセントラルより勧誘がある。
1995年 春 (株)セントラルに移籍(単身赴任)。
  大阪在住にめげず岡山へはちょくちょく帰省。
  その成果もあり次男 貫太君も無事誕生。
1997年 三男 欣也君誕生。その後、あまり帰って来たという話しを聞かないが・・何故?

スポンサー様
サーパント ベクター 各種パーツ。
セントラル グランプリフューエル 各種パーツ
エレジ タイヤ。
サンワ プロポ サーボ類。
ヒーロー ボディ塗装 中谷店長。
ビバーチェ 応援と邪魔。プレッシャーをかけ足を引っ張る。

その他
岡山勢の方ははあまり遠征をしません。多くに「浅原にやらしときゃええじゃん」って
聞きます。遠くに行っていても、なんとなく郷土の代表と思われてます・・・
各地で岡山勢を見かけられましたら応援やお手伝いをしましょう。
ファンレターやお祝いは(株)セントラルアールシー 浅原 様宛に。
抗議や批判、あるいは「こんな秘密知ってます」等は ビバーチェへ。